この頃しきりに思うこと
教育の世界では上部構造が下部構造を規定するが,受け手の方に意欲と自覚的な努力が期待できない場合には,教えるための如何なる努力も虚しいものである。優れた先生を揃えなければ実りある教育は実現しないだろうが,勉強する気がさらにない人間に,身に付けるに努力を要する知識や技術を伝えることも,また困難である。
明治大学理工学部数学科に,教授として赴任して以来13年が経った。この間に数学科は,大学院基礎理工学専攻数学系を増設し,理工学部と理工学研究科内で応分の役割を果たすに至った。大学院博士後期課程からは2名の理学博士が誕生し,国立大学専任講師となり,溌剌と研究教育に従事している。大学院博士前期課程には,毎年10名前後の学生が進学し,2年間の研究生活を終えて,社会に巣立っている。今も博士後期課程に3名の学生が在学して研究者への道を歩んでいるし,来年度も1・2名の進学者が予定される。創立後満7歳の基礎理工学専攻数学系の実績としては,満足すべきであろう。学部を卒業した学生達の社会における評価も決して低くない。だが,何かがおかしい,深い所で何かが壊れつつあるという,警報が聞こえる。数学を学ぶには能力が必要であり,創り出すには才能が必要である。大学で出会う学問としての数学は,高等学校迄に覚えてきた数学とは別のものである。泳ぎに喩えれば,プールと海くらいの違いがある。学習の範囲が定まっていて,試験問題はその範囲から出題され,問題には必ず正解が一つあることが約束されているとき,試験に合格するに最も効率の良い学習法は,過去問を幾つかのパターンに分類し,パターン毎に解法に習熟することである。だが大学数学には範囲がない。数学が取り組む問題には,答えが一つとは限らない。解が存在しないかも知れないのである。何を考えるべきかを知ること,即ち,問題を定式化することが最も重要な課題となる所以である。
数学には王道がない。数学科では入学後3年間を準備に当て,基礎から体系的な積み上げを行う。最初の2年間は何をやっているのか,なかなか意味がわからない。後に必要となるから今は黙って身に付けるようにという指導を受ける。殆どすべての学生達がこの訓練に適応しない。彼らにとって2年後は永遠にやって来ないに等しいのである。復習をしない。数学を学び,反復練習や追体験をせずに身に付けることができる者は,大変稀である。教える内容は範囲を定め,テキストに従う。定期試験の問題もこの範囲から出題されるが,高校までの学習方法が役に立っていない。問題の意味や解法の意味を理解せず,解答だけを丸暗記する。問題の中の数値を変えてあるにも拘らず,覚えてきた数値で解答を書く。数学が分らないというよりも,数学を学ぶ力がないのである。
才能は天賦のものであるが,能力は努力と訓練によって開発さるべきものである。単位認定にあたり,1回の試験で合格するものは大体40%位である。追試をして60%~70%に達する。どちらも,満点を取る学生と零点を取る学生が,両方ともに居る試験である。この数値から判断するに,数学科への入学者の中で数学を学ぶに適性を有するものは60%~70%であり,30%前後の学生には資質的な問題があると考えるべきかも知れない。適性ありと判断される多数の学生達も学習法には問題を抱える。断固たる決意を持ち,正しい努力を継続すれば途が開ける可能性があるにも拘らず,間違った学習法にしがみつき,追いつめられても必死にならず,自らの可能性と将来を見殺しにしている。各学年に数名の非常に優れた学生がいる。この人達と他の学生達の間には,4年生になったとき,天と地程の違いが生じることがある。一方が大学院レベルの数学を使いこなし始めるに比して,他方は学部1年生レベルの数学に習熟しないのである。この相違は1・2年次の過ごし方のささやかな違いに端を発すると思われる。適性を正しく生かすことができるかどうかは,入学後の日常生活の過ごし方によるのである。
大学教員になって満30年が経った。今,日本の大学教育は,衰退の一途を辿りつつあると思う。
大学は学問の場である。教員達の主要な業務は研究にあるが,教育を無視したり大切にしないわけではない。大学に勤務する者の職務に,教育が占めるべき比重は,20%~30%位である。最も大きな比重60%は,研究が占める。 優れた研究と実り豊かな教育を可能にするには,大学の管理業務から手を抜くことができない。10%~20%位の比重は,管理運営と社会に対する貢献が占める。大学教員達は,一方で学生の教育を担いつつ,他方,革命的な発明と発見を目指して,研究室を根城に世界と対峙しているのである。
大学に進学して来る人々は,大学の営為の本質が何であるかを知らない。大学が単なる学校であり,教員達は単に学校の先生でしかない方が,むしろ望ましいようである。専門学科に在籍しても,学問体系に関心があるとは限らない。よりましと判断される学科に入学しただけであり,その学科の学問体系が自らに向いていないなら,卒業だけはして,専門学校に入り直すことを計画している学生も少なくない。大学生という商売をしていれば4年間遊べるし,大学に通っていることにすれば,この国にはmilitary serviceは無いが,労働に参加しないでいる社会的な言い訳が立つ。大人ではないのである。しかし,高等学校までと違い,大学教育は,精神的には成人に達した者を対象とする。入学してくるものが,精神的には精々12・3歳の年齢でしかないとしたら,大学教育が成立する可能性は初めから小さいに違いない。 単位認定基準は非常に甘いので,大した努力をしなくても,卒業に漕ぎ着けつけることが可能である。学業成績不良者への退学勧告制度を備えた大学は少ない。多くの大学は,入学志願者数の減少や文部科学省からの助成金の減額を懸念し,留年者や退学者を出したがらないのである。今や,18歳人口の減少が原因で,希望する限り必ずどこかの大学に入学することが可能である。大学に入学することは,4年後の日付で発行される卒業証書を手に入れたとほぼ同等である。これで大学教育が活気を失わないとしたら,むしろその方が不思議ではないだろうか。
「十数年前の大学進学予備校のクラスで,中学校レベルからやり直し,どこかの大学に押し込むことだけを目標とした最低クラスの学生達よりも,現在の国立大学の学生達の学力の方が低い。」との報告がある。入学時に学問への動機付を持たず,入学後にも学習と勉学への動機付を得られず,いつまで経っても自分に自信が持てず,だらだらと遊んで社会参加の時期を引き伸ばし,卒業することだけが目標の低学力の大学生というのが,現代日本の大学生の実態なのであろうか。
大学の教職員は研究と生活が懸かっているから,実態に呆れ深く失望しても,大学なんか潰してしまえとは口にできないし,決して口にしない。大学生達も,自らを世界基準で評価すれば到底大学生とは言えないし,他国の大学生達からは大きく引き離されていることを知ってはいるが,重くは受け止めず,関心も示さない。日本では周りに居る者が皆そうなのであるから,改善の必要がないのである。このようにして日本の大学の多くが,次第に存在理由を失い,大学教育は衰退を続け,退廃に陥る。
このままでよいのだろうか,どうしたものかとしきりに思う今日この頃である。