数学と学園生活
ただいま長友先生からご紹介に預かりました後藤四郎です。代数学の研究者で,本学科の教授を務めております。どうぞ宜しくお願いします。
さて,新入生の皆さん,そしてご父兄の皆さん,入学おめでとうございます。とくにご父兄の皆さん方は,これまでのご苦労とご努力が報われ,さぞお喜びのことと思います。今から私は,新入生の皆さんの門出を祝いながら,つたない話をさせて頂きたいと思いますので,暫くの間,お付き合いをお願いします。内容は次の通りです。
1.「学問の場」としての大学
2.数学とはどのような学問か
3.学科の教育方針と学ぶ上で新入生の皆さんが知っておくべきこと
4.一度しかない機会を大切に
それでは,始めましょう。
1. 大学とはどういうところなのでしょう。
皆さんは幼稚園から始めて,小学校・中学校・高等学校と学校教育を受けて来て,今日からは大学で学ぶことになるのですが,これまでに受けて来た教育(というか「指導」)と,これから大学で出会うことになる教育とでは,どこがどう違うのでしょう。「まあ,あまり違いませんよ」という意見にも,そうだなあと私は思いますし,「いやあ,かなり違いますよ」という意見にも,うんそうだなと思うのです。
今日は,そんなには違いませんよという話は後回しにして,違うとしたらどういうところが違うのかということを,まずお話したいと思います。私が考えるところでは,多分一番大きな違いは,大学は「学問の場」であって,大学で出会う学問としての数学には,境界もなければ限界もないことであろうと思います。
もちろんのことですが,大学は厳格にカリキュラムを定めて教育を行います。一つ一つの授業科目では「ここからここまでを教え,学びます」,「この範囲で定期試験を行い,合格すれば単位を認定します」ということが明確に決められています。そして,1・2年次で学ぶことは,3・4年次の学習のための準備です。3・4年次では,各分野の基本を学びます。これらを修得すれば単位が認定され,「学士(理学)」の卒業証書が貰えるというわけです。
それはそうなのですが,大学という組織が用意していて,皆さんに提供することできる世界は,実ははるかに巨大であって,際限なく広いものなのです。
私が申し上げたいことは,皆さんが卒業するために学び身につけなければならない事柄はカリキュラムで明確に定められているのですが,大学が用意し提供することができる知識や技術(それを私は「学問の世界」と呼びたいのです)は,全然別のスケールの「時間的な大きさ」と「空間的な広がり」を持っていて,皆さんが求めさえすれば,そのような世界と容易に出会うことができるのだということです。
大学が高等学校までの教育機関と一味違ったところがあるとすれば,ここであろうなと私は考えています。
2. ではまず,数学という学問の持つ著しい特徴を,二つお話しましょう。
一つは,数学という学問がとんでもなく社会の役に立っているということです。建物を建てる,高速道路を造る,自動車を造る,ロケットを造り飛ばす,飛行機を飛ばすといったとき,計算技術としての数学なしには何一つできません。カーナビに相対性理論が実用化されていることはよくご存じと思いますが,それを可能にしているのは数学です。金融や医療の現場,天気予報や地震津波のシミュレーション,パソコン技術など,様々な分野で最先端の現代数学が使われていますが,それらの技術はパッケージ化されているため,普段は目につかないことが多いというだけのことです。つまり数学は現代文明の基幹構造というか,現代の文明を根底で支える技術の一つであって,アメリカを始め欧米の先進諸国はもちろん,多くの開発途上国が数学の研究と教育に力を入れているのはそのためです。数学の研究を軽んじ,数学の教育にお金をかけないような国があるとしたら,そのような国の将来は甚だ危ういと私は考えています。
数学という学問の持つもう一つの特徴は,何千年もの歴史を持つということでしょう。数学においては,5000年前に発見された事実であっても,ひとたび正しいと認識されれば「永遠の真理」です。
これは決して自明なことではないのですよ。よく考えてみれば,たいていの学問分野では,真理は常に相対的なものです。見る人によって真実性が極端に変化するだけではなく,新たな事実の発見に伴い,格付けが上がったり下がったり,変化します。時間の経過と人々の参加によって修正が加えられ,場合によっては完全に否定されたりもしますよね。しかし,数学はそうではありません。
数学における真理は「絶対的な真理」であり,住む星が違う生き物といえども共有できる知識であろうと私は考えています。
純粋な形でこのような真理を体験できること,これが数学の持っている際立った特徴であり,数学が社会の役に立つということも,数学の持つこのような特性(「普遍性」)と無関係ではないであろうと,私は信じています。
3. さて,皆さんはこれから4年(乃至5年の)間,大学でそのような学問である数学をおもに学ぶわけですから,皆さんの勉学に少しでも役に立つことを願いながら,これから2・3の助言をしたいと思います。
まず数学科はどのような教育方針を持っているか,ということをお話しましょう。
数学科の26年の歴史の中で,今は何と言うのでしょうか,国家公務員上級職採用試験に合格し,霞が関の高級官僚となって国家の権力を握ったような偉い人は,(幸いにも)一人もありません。しかし,東京大学を含めた大学の教員となり,数学の研究者として活躍している人は,計5名います。高等専門学校の准教授になった人も,2名います。毎年10名前後の卒業生が高等学校や中学校の教員になっていますので,正確には把握していませんが,200名位の(大学院を含む)卒業生が教育現場を担っている筈です。そして,1500名位の卒業生の大半は企業に勤め,今や中堅として責任ある地位に就いています。
私はこの事実を非常に重く受け止めています。すなわち,私達は特別なエリートを育てているわけではないこと,それぞれの職場で額に汗しながら働き,中堅として組織や社会の実質を背負う,本来は最も大切にしなければならない人々を教え,育てているのだという認識と,それを誇りに思う心です。
この認識は数学科の全教員が共有していますし,カリキュラムもこの方針に従って組み立てられています。そして,ここにおられるような,自信を持って紹介できる優れた先生達がこの趣旨に賛同し,このように多数集まって下さっていることを,私は大変嬉しく思っています。
4.では,新入生の皆さんに贈る助言に入りましょう。
数学という学問は,現在も大変な勢いで発展を続けているのですよ。今この瞬間にも,世界のどこかで誰かが新たな発見を成し遂げ,優れた深い定理を証明しているかもしれませんね。この建物も,明治大学理工学部数学科も,そういう大きな数学の世界と直接に繋がっているのです。
このような「数学における高度の創造」には,疑いなく才能が必要であり,決して凡人に出来ることではありません。
それだけではなく,現代数学は巨大な体系をなしていて,とてもじゃないが一人の人間がすべてを理解できるような代物ではありません。全体を俯瞰するだけでも容易ではないのです。つまり,現代数学を学び理解するためには,実は非常に大きい「特殊な能力」が必要なのです。
私は皆さんが「自分には才能がある,もちろん能力もある」と考えているのであれば,お話することは何もありません。ですが,私と同じように「自分は努力することによって数学を学び,理解してきた」と考えておられるのであれば,申し上げておきたいことがあります。
まず,大学が用意し提供する数学と高等学校までに学んできた数学とでは,学習の目的が違うことに注意しなければなりません。やや極端な説明になるかもしれませんが,高等学校では,「大学受験に合格する」ことが学習の最終目的になってはいませんでしたか。しかし,大学に入ってしまえば,この目的は消滅します。困るなと私が思うのは,もし万一にも大学での学習に自分なりの目的と動機を持たないまま進学して来るとしたら,なかなか新たな目的意識を持つことができず,「単位を取ること」と「卒業すること」が学習の目的になってしまうことが大いにあり得るということです。それでどこが悪いと言いますか。うーん,悪くはないが,良いことだけでもないと思いますね。先ほども述べましたように,もっと広い大きな世界があることにも気がついてくれないかなと思うからですね。
しかし,今はもう少し違ったことをお話しましょう。
これは教育の敗北なのですが,4年間で大学を卒業できるのは,入学者のたった70% に過ぎません。私が担当している授業科目では,40%近い人が不合格に終わります。
どうしてこういうことになるかと考えると,いろいろな理由と原因があり得ると思うのです。一つは,やはり大学で数学を学ぶことは,もともとそんなに容易いことではないということがあります。しかし,これは当たり前ですよね。大学の名に値する大学であれば,それはそうでしょう。
しかし,もう一つの理由はずっと深刻で切実ではないかと,私は思っています。それはどういうことかと言いますと,高等学校から大学に進学し,大学で学ぶということがどういうことかに気がつくまでに,ひょっとしたら2年間くらい,空白の時間(たぶん無駄で無意味の時間)が経っているのではないかということです。
例えば,高等学校までは,定理の証明は黒板で先生がするものでした。生徒の仕事はその定理を公式として記憶し,使い方を覚えることです。教科書の章末問題を解いて解法を理解し,受験レベルの問題を何回も何回も解いて熟練し,最後にはひとよりも短い時間で正確な答えを出せるようになること,これが学習の目的であり,生徒の仕事であったのではないかと私は思っているのですが,違いますか。しかし,これに成功し勝ち抜いたからこそ,皆さんは今ここに新入生として座っているのですよね。
このような学習法は,大学での勉学でも,そうですね,「単位を取る」ためにもいくらか役に立つだろうと私は思っていますが,「大学数学を理解する」ためには,殆ど役に立たないであろうと,私は見ています。
大学では定理の証明というか,「なぜこのようなことが成り立つのか」,「その理由は何なのか」ということを,徹底的に議論することがしばしばあります。もちろんそうではなくて,公式として暗記させ,解き方だけを繰り返し練習させることも1・2年次ではありますが,3・4年と進行するにつれて,証明中心の学習に変わって行きます。
大切なことは,このような「なぜ正しいと思えるのか」,「なぜ正しいと思ってよいのか」ということについては,学習者である皆さんが,やがてはご自身の責任で応えることが求められるということにあります。平たく言えば,「自分の頭で考え,自分で理由を見つけ,説明できるようになりなさい」ということです。
先生が教え,学生は定理を暗記するのが仕事ということは,まず無くなります。(そういうことをしている学生や先生方も,全くいないわけではないようですが。)
実は,数学は断片的な知識の集合体ではなく,それらの知識には相互に深いつながりがあり,全体として一つのストーリーを持ちます。大学における数学学習の目的は「ストーリーを持った知識としての数学を追体験し,自らの内面に再構築する」ことです。
結局のところ,この切り替えに遅れたり,成功しなかった人が,学年が進行するにつれて急速に数学が分からなくなり,単位が取れなくなり,どうしようもなく留年するのであろうと思われます。
安心して欲しいのですが,数学科のカリキュラムは 高等学校までの学習をあまり前提にしないで組み立てられています。ですから,入学後の半年から1年間に学び理解すべきことは,「高等学校までとは,学習の目的と方法が異なる」ということだけなのかもしれません。
どうすれば良いかと言うと,もちろん簡単です。「ふつ―に,まじめに勉強すれば良い」のです。
「ふつ―に,まじめに勉強する」というのは,毎回の授業はかならず次回までに復習し,わからないところが無いようにしておくという意味です。馬鹿馬鹿しく簡単なことですよね。つまり,「数学に王道はない」というか,大学ではかなり長時間の自宅学習が必要となるのですが,このことを理解しないで,「おーっ,明治大学に入れた,ラッキー!」と浮かれて,切り替えることなく高校生の気分のままで過ごしていると,あっという間に半年や1年が過ぎ,気が付いたら数学が分からなくなっていて,仕方が無いから高校までと同じ「丸暗記」主義の学習法にしがみ付くということが起こっているのではないか。それでは,仮に単位が取れ,何とか卒業できたとしても,大学に入ったことの意味はかなり希薄になるのではないか,私はそういうことを心配しているのです。
まずいですよね。
いま皆さんは,平等かつ公平に,全く同じスタートラインに立っています。出身高等学校のレベルや偏差値がどうのとか,ご自身の高等学校までの学業成績がどうのとか,まして入学試験問題の出来がどうのとかいったことは,たぶん全く関係ありません。各授業科目で「ふつーに,まじめに勉強すること」,高校までとは違う数学が現れ,数学の学習法も異なって来るので,逃げず手を抜かず取り組み,誠実に向きあって,ご自分の力と見識を高めることを心から奨めます。そうすることによって,今の皆さんが全く想像もしなかったような,豊かな将来が4年後に開かれる可能性が十分にあります。そのような実例は沢山あります。幾らでもお話できます。
さあ,長くなりましたが,大学生として4年間を過ごすことは,普通は一生に一度のことですよね。どうかこの機会を大切にして下さい。この機会を活かし,何年か後に,豊かな将来展望が持てるようになるかどうか,私たちは幾らでもお手伝いはしますが,しかし結局は皆さん自身の「生きる姿勢」と「志し」次第なのです。それに,大げさなようですが,将来皆さんが立派な社会人として巣立ってくれるかどうかは,皆さんだけのことではなく,ご父兄の期待だけでもなく,我が国の将来がかかっているのだと私は本気でそう思っています。どうか最初の1年間を大事にして下さい。
ご静聴ありがとう。ご質問があれば,お答えします。